オーストラリア滞在記 パース編③

当初の予定では学校を卒業したら農場で働きながらオーストラリアを車で1周する計画だった。

農場で働こうと思ったのはビザの期間を延長できるセカンドビザが欲しかったからだ。

セカンドビザを取るためには指定された職種で指定された期間働かなくてはならない。

(農業の他にも畜産業、漁業、鉱業、建設業などがある。)

 

街での仕事をするつもりがなかった私は、パースで知り合った友人達との別れが惜しくて、約3ヵ月無職のままダラダラと過ごしてしまった。

オーストラリアでは、ホットドック1個無料やステーキセット5ドルなどのキャンペーンを決まった曜日に行ってるバーやクラブがあって、酒好きの私は毎週のように飲み歩いていた。

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毎週末は仕事が休みの友人とパース近郊のフリーマントルといいう港町で海釣りをして、その釣果で酒盛りをした。

ワーキングホリデーや長期の旅行で来ている若者は金が無かったので、金が掛からない娯楽として魚釣りが人気だった。

釣り竿がなくても釣り糸と針とおもりのセットを数ドルで購入し簡単に始められたし、何といっても食費が浮くのが魅力的だった。

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無職期間中にバックパッカーズの友人の誘いで近郊の農場で働くことになり、農場に移った。

そこは汚い部屋に電球とマットレスがあるだけで、キッチンも屋外にあるような建物だった。

仕事はカンボジア人から斡旋してもらい不法就労の東南アジア人と一緒に働いた。

しかし労働条件が良くないし、セカンドビザの取るための条件にも該当しない農場だったので、数週間で辞めてパースに戻った。

 

車の購入やバーやクラブ、小旅行などで散財し貯金が尽きかけていた私は、本気で仕事をしなければと思い約半年滞在したパースとの別れを決意した。

まず、パースから北上しノーザンテリトリー準州ダーウィン、南下してウルル(エアーズロック)で有名な街アリススプリングス南オーストラリア州アデレード、海岸沿いにメルボルンタスマニア島シドニーゴールドコーストケアンズオーストラリア大陸をS字を描きながら周る計画を立てた。

その合間でセカンドビザ取得を視野に入れながら、農場で働き旅行の資金源にしようと考えていた。

 

そして9月末、バックパッカーズで知り合ったHさんと一緒にパースから北を目指すことになった。

Hさんは無類の釣り好きで400ccのオフロードバイクに釣り竿と荷物を積んで、釣りをしながらオーストラリアを周っている面白い人だ。

パース郊外を抜けると景色は一変して、赤茶色の土と背の低い植物と延々と続くアスファルトだけになった。

この景色を見て都会での生活が終わり、冒険が始まるような高揚した気持ちになった。

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To be continued

オーストラリア滞在記 パース編②

渡豪して数日、最初の月曜日から学生生活がスタートした。

私が通っていた学校はパースの中心街にあるPerth International College of Englishという、英語を母国語としない人が英語を勉強する学校だ。

 

初日は英語力を確認するテストと面接があり、私はレベル3からのスタートだった。(挨拶と中学レベルの単語がわかるくらいだった。)

クラスメートは日本人、韓国人、中国人、タイ人、ベトナム人、インド人、ブラジル人、コロンビア人、チリ人、スイス人と国籍は様々だった。

新しくできた友人達とランチを近くの公園で食べたり、週末は皆でBBQや観光をしたりと充実した日々を過ごした。

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もともと机に向かって勉強するのが苦手だったので、宿題はやらなかったし2ヶ月間クラスもレベル3のままだった。

学校には約2ヵ月通ったが、新入生が加わったりレベルアップや帰国等で生徒の入れ替わりが多く、出会いと別れが毎週あった。

今思えば、費用やビザの残りの期間を考えて学校は1ヵ月以下で良かったとも思うが、2ヶ月間で知り合えた友人達との思い出は何にも代えがたいものだと思う。

 

学生の時の住まいは最初の1ヵ月はホームステイだったが、残りの1ヵ月はシェアハウスに移り卒業まで過ごした。

卒業後、車を購入し農場で働こうと考えていたが、渡豪直前に3ヵ月の免許停止になってしまい国際免許も取得できなかった。

免許証が届くまでパースに留まる必要があったので、安いバックパッカーズに移った。

当時、パースで最安だったと思うそのバックパッカーズは、オーナーが中国人で台湾人と香港人の割合が多かったが皆親切で建物はボロかったが居心地は良かった。

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オーストラリアには人が集まるスーパーマーケットや学校等に掲示板があり、売りたい物やシェアハウスの情報、相乗りの募集など、様々な情報が載っている。

私は免許証が戻って来るタイミングで車に乗りたかったので、6月ごろから色々な掲示板を物色して予算に見合う車を探し出し、何とかマイカーを所有することができた。

7月になり免許証を受け取った私は、翻訳と書き換えの手続きをして西オーストラリア州の運転免許証を手に入れた。

 

免許証と車を手にした私は、いつでも自分の好きなところに行ける自由を感じ無敵になった気分だった。

 

To be continued

オーストラリア滞在記 パース編①

約10年前の話だが、当時のことを最近よく思い出すので、覚えている範囲で回想録として書いていく。

 

当時、海外旅行にはまっていた私は、車の購入資金として貯めていた100万円強の残高を見て、ふと思った。

「これだけあればしばらくの間海外に行けるな」

そう思い始めたら車の事など忘れて、毎日のように海外へ行くことだけを考えていた。

日頃から「海外に住んでみたい」、「英語を話せるようになりたい」と漠然と思っていたので、「南半球に行ってみたい」という動機も付け加えて行先はオーストラリアに決めた。

 

まず始めにどの街に行こうか考えた結果、西海岸にあるパースに行くことにした。

理由はシドニーメルボルンよりコンパクトな街で田舎育ちの私に向いていると思ったからだ。(行ってみたら大都会だった。)

そして何より、海なし県在住で「西海岸」という響きに強く憧れを抱いていたからだ。

早速、ワーキングホリデービザを取得して海外生活の準備を進めた。

 

そして2009年4月、私は意気揚々とパース空港に降り立った。

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シャトルバスでパースの中心街まで行きバックパッカーズ(ドミトリースタイルのホテル)を探した。

当時の私は行き当たりばったりの旅がカッコいいと思っていて、何の下調べもせずにパースまで来てしまっていた。

こっちの方だろうと勘を頼りに軽い気持ちで歩き出したが、やっと見つけたのは予算オーバーのホテルだけだった。

スマホも無く英語も話せない私は、重いバックパックを背負いながら途方に暮れた。

一刻も早く荷物を降ろして楽になりたかった。

気を取り直し中心街まで戻り覚悟を決めて、インフォメーションセンターのスタッフに英単語とゼスチャーで説明し何とかバックパッカーズの場所を教えてもらった。

そこは私が探し回った方向とは逆方向で、しかもインフォメーションセンターから徒歩5分という立地だった。安いだけあって1部屋に2段ベットが8個ある16人部屋だった。ここでは数日過ごした。

 

パースでは2ヵ月間英語を勉強する予定だったので、語学学校からホストファミリーを紹介してもらい彼らの家にホームステイする事になった。

家は学校がある中心街からバスで10分程の閑静な住宅街にあった。

着いてすぐ親父さんが近所を車で案内してくれて、最寄駅の場所や家のルールを教えてもらった。

バックパッカーズでの数日間は旅行気分だったが、ついにオーストラリアでの生活が始まる実感が湧いてきた。

ホームステイ初日は、学生に戻れるウキウキ感と新しい出会いへのドキドキ感で、人生で最高レベルの夢と希望に満ち溢れた精神状態だったと思う。

 

To be continued